1. 
世界が賞賛する「ごちゃ混ぜの精神」の中心地。
お正月には神様にお参りし、クリスマスの日にはケーキを食べ、お先祖様の供養はお寺に行きますよね。日本人はいろいろな宗教を柔軟に受け入れることができています。
私たちには当たり前のことなのですが、世界では考えにくいことだそう。
熊野は1200年以上もはるか昔から、詣でる全ての人を受け入れてきました。
昔は女性や病気の人などは「穢れ(けがれ)」だとして、特定の場所には入れないこともよくありましたが、熊野は全くその差別がありませんでした。
さらに、異なる宗教でさえ認め合い、紀伊という小さな場所に「熊野」「吉野」「高野」「伊勢」という4つの聖地が共存しています。
その原点が「熊野」です。日本人がもつ「ごちゃ混ぜの精神」の原点が熊野にはあり、これは日本人の多様への受容を世界に示す象徴的な場所なのです。
 
2.巡礼者の願い
この霊場に立つ案内を見ていると、ある一文が飛び込んできました。
「ここは全熊野古道の終着点であり、よみがえりの出発点」
この一行を読んだ時、私は胸の内が深く響きました。全ての熊野古道がここに行き着くということもさることながら
「よみがえりの出発点」という表現に深く感じ入ったのです。
この言葉を見たときに、いにしえの巡礼者がなぜ命をかけてこの地に来ようと思ったのか、理由の本質が見えた気がしました。険路を命をかけて歩く巡礼者の胸の内には
「よみがえりたい」という思いが根底にあったのです。
熊野古道センターで見た「現世から浄土へ、そして浄土から現世」という言葉を思い起こしました。
 
3.熊野への道は、現世から浄土へ向かう象徴でした。
浄土へ向かうためには、死を経験しなければなりません。
死の擬似体験のひとつとしてこの中州には橋がかかっていなかったそうです。
巡礼者は身体を水にさらさなくては、本宮に辿り着けませんでした。
険しい山歩きも含め、最後に川に身をさらすことで「擬似的な死」を経験したのです。
The road to Kumano was a symbol of leaving this world for the Pure Land.
In order to reach the Pure Land, one must experience death.
It is said that there was no bridge on this sandbar as one of the simulated experiences of death.
Pilgrims had to expose themselves to water to reach the main shrine.
He experienced a ``pseudo-death'' by exposing himself to a river at the end, including a steep mountain hike.
熊野の地はまさに「よみがえりの地」という位置付けだったのです。
熊野巡礼のコンセプトは「よみがえりの旅」であり、それが1200年前から多くの人を引きつけた理由だったのだと思い至りました。
The land of Kumano was truly positioned as a "land of resurrection."
The concept of the Kumano pilgrimage is a ``journey of resurrection,'' and I realized that this is the reason why it has attracted so many people for 1,200 years.